スポンサーサイト
--年--月--日
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
雑事雑考 師走は公の足音と共に
2013年12月26日
IMG_5192 (1)


 街がきらびやかな灯りと歌に包まれる東海岸のクリスマスが終わりました。ハワイに住む北国出身の家族は、自分達の住む常夏の小島を心の底から愛していますが、ツリーをたてたり、家を飾ったり、どんなにがんばっても、南国の気候の中で正しいクリスマスを演出する事だけは出来ないのだと言っていました。言われてみれば確かにここには純正な昔からのクリスマスのスピリットが漂っている気がします。

 24日の夕方、思い立って決行したことがあります。それは自分にホリデーギフトを買うこと。うちから北西へ10マイル行ったところにある、小さなペットやでハムスターを2匹買いました。小動物としてはずっと、鳩が飼いたかったけれど、今鳩をもらってきたら、日本に残してきた自分の鳩が可愛そうな気がして、なかなか一歩踏み出せなかったのです。ロボロフスキー・ハムスターは自分の中で「小鳥に毛がはえて、足がはえて、走り回っている。」という感覚の生き物なので、ネズミ族の中では特に親しみを感じる部類です。あまり触ったりは出来ませんが、何かがちょろちょろしてるのを見ているのが好きな「わし」のようなタイプには最適の生き物です。ケンカにならないようにメス2匹のペアで、バイオレットと、ベイリーという名前に決まりました(クリス子と、マス子という案もあった・・・)。シャイで、顔がオカメみたいになっている(写真の)ハムスターがバイオレットで、あまり警戒心がなく、働き者なのがベイリーです。ベイリーは活発で常に高速移動しているのでうまく写真に撮れませんでした。「毛のある生き物」が家にいるというのは3年ぶりですが、なかなかいいものです。

 2013年もあとひといきですが、皆さんも暖かくして、楽しいホリデーをお過ごしください!

IMG_5089.jpg
野外活動 鷲達の家
2013年12月16日
DSC01096.jpg

 2年前の秋口、カナダとの国境近くで撮った写真に、いなかの砂利道が写っていました。車一台通れるだけの小さな道でしたが、気に入って何度も遊びに行った場所でした。こんな細い道、もし自分が通っているときに、向こうからも車が来たら大変ですね。まわりの草地に入って道を譲り合うことも出来なかったのです。ここは、ハクトウワシがヒナを育てるために保護された野原でした。だから車のための道があるのに、事実上、車は走れないという変な道でした。

 ここに来て誰にも会いませんようにと願いながら、愛車にのってスリリングな砂利道クルーズを楽しんだこともあります。うまく通り抜けられた時は水筒の紅茶を飲んでひとり祝いました。しかし、いつだってむこうからほかの車が来ることに怯えていたわりに、ここで他の人に出会った事は、黒い一頭だての馬車に乗った、文明からの隠遁者にめぐりあったただ一度をのぞいてありませんでした。

 ハクトウワシ達の住む野原は、なんか不思議な癒しのパワーをもっていました。いちどあっちへ行ったら行ったきり後戻りもままならないような道に、月並みだけど人生をかさねちゃったりとか。遠くに居る鳥達の古代の神のような光る白髪を見て、そのような光景を一人じめしていることに変な満足感を味わったり。冷たい風にそよぎながらいつ来るともしれない蜂を待つ孤独な野の花に、心の中の孤独感を投影したり。そして日が暮れていく頃には、なにもかもが欠点を補いあい完璧に見えるこの原っぱの中で、自分のもつあらゆる欠点もまた、いずれ来る誰かや何かによって埋め合わされるかもしれないという希望を抱くことができました。そしてまた自分自身だって、この世にある誰かや、なにかの欠けた所を見つければ、それを埋め合わせるために一生懸命やらねばいけないという、予期される責務感に心臓が燃えているように感じたものでした。

※メノナイト教徒、またはアーミッシュ(厳密にはこの二つは異なる)。16~18世紀に北米に渉ったスイス・ドイツ系キリスト教徒。
 多くは電気、通信機器などテクノロジーの使用を禁じ、現代においても移民当時の農耕・牧畜を基本とする生活を営んでいる。移動は馬車。
自然観察 誰が為に
2013年11月25日
DSC05757.jpg

 もしある時突然野生の生き物が目の前に倒れていたとして、それを助けるか、助けないかというのは難しい問題だ。人間は感情を持ち、力なく横たわる小さな(美しい)動物を見た時、よく「助けを必要としている」という勝手な感想をいだく。その感情がおもむくまま、今にも消え去ってしまいそうな命を手のひらに包んでしまえば、無意識下にあたかも自分が「自然の庇護者」になったかのような錯覚に陥り、非日常的出来事に関して起こる異様な胸の高鳴りは、「使命感」と認知され、助けを求めて奔走する事は、我らヒトのみに許された尊い「献身」とみなされる。でも、本当にそうなんだろうか。

 もう身じろぎする力すら残されていない翼を静かに補ていし鳥に目隠しする時、どくどくと脈打つ血潮には、「使命感」だけでは片付けられない原始的歓喜が入り混じっているような気がする。本物の野生の猛禽とはいつも逆光に目を細めた中でしか、見つけられない存在だ。その存在を見よう見ようとしても許してさらけ出してくれなどはしない。ペット屋の軒先に繋がれ鶉の半身をついばむ鳥とは違うのだ。そんな求めても手の届かない美しい動物を、間近で満遍なく眺めてみたいという抑えがたい野蛮な欲望は、神様の気まぐれによって時おり叶えられる。不運にも(または、幸運にも)生から死へと移行する最中の鳥に出会うことによって。その命の所有権の、所在が曖昧な瞬間にいる生き物に出くわしたとき。

deathmask2.jpg

 目の前で失われていく命を、助けないのは難しい。

 水と僅かな糖分、電解質(たべられるようなら、獣肉や血)を与え暖かくして、それでも鳥がよみがえらない時、そんな時は自分に言い聞かす。空高く矢の様に飛び囀り好きなところへ行き好きな相手とヒナをそだてて・・・生きてきた鳥が、最後ダンボール箱の中でただ半日長く生きたからといって、そのことに意味などありやしないのだと。そして生き物を「森に還す」選択が現実のものとしてせまってくる。鳥を置いて立ち去った木立ちに夜、零度以下の霧がガラス粒のように降り注ぐ中、今夜は木々の作り出すシルエットが、命を吸い出す生きたポンプの様に見え、胸騒ぎがし、眠れなくなる。

※ 今回のエントリーの内容は地域の自然センターの方針をうけて、Virginia Wild Life Rescue LeagueThe Raptor Conservancy of Virginiaに連絡を行った上で書かれています。人間の活動が原因と思われる(何らかの中毒、ケガをしている等)の問題が疑われる鳥の場合、速やかに最寄りの保護施設に指示を仰でください。
野外活動 秋の光
2013年10月25日
IMGP4632.jpg

 外は秋の光がこんこんと降り注いでいます。この頃の太陽のピンクっぽい灰色っぽい光の中に居ると、なにかを思い出せそうな気がしてきます。高木の葉っぱは一斉に色んな色になって、それがいよいよ土に還る前になって急に思い出したように自己主張している人々みたいであり、おかしいような、かわいそうなような変な気分にさせられます。風から枯れ草と冷たい地下水の匂いがします。ひと夏の間賑やかな様子を見せてくれていたシマリスや昆虫達も皆いなくなりました。

IMGP4634.jpg

 秋は一年の中で、穏やかで美しい終わりの時です。植物の多くが痛みなき死を迎えていきます。冬がくる前に、自然の中にある色んな生命体の、抜け殻、子供の出来たあとの部分、末端、使ってない器官、そういうところが徐々に栄養の供給を絶たれ、勝手に乾いて、そのうちぽろっと取れる。自然は「終わりにする事」をよく分かっていると思います。だから理想の終末は、自然に手本を求めたいと多くの人が思うんでしょう。
野外活動 赤いボート 青い水底
2013年10月24日
IMGP4624.jpg

IMGP4621.jpg

IMGP4616.jpg
名も知らぬ誰かさん、がんばれ、と岸壁の上から応援しました。

© 2011 YURIKA K.K. All Rights Reserved

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。